タイ料理と喫茶店

タイに生まれたかった。

そのあと喫茶店に行った。30歳前後の女性が仕事について語っていて、愚痴だったんだけど、料理が来てからは愚痴の陰湿度が弱まったよう。食べ物ってパワーがあるのね。
それでHate!を読んでいたんだけど、女性の登場人物がもうすんごい顔でSHE'S THE KIND OF PERSON WHO CAN BE FRIENDLY AND CONDESCENDING AT THE SAME TIME...と言うところとか、あー負けました、ていう気になるなあ。condescend:《腰は低いが》〈相手を〉下に見たふるまいをする(to)…とか、こんな短い単語でこんなことが言えてしまうなんて、だ。こわいな。
今日の内田樹のブログのアメリカ論は面白い。外国の政策とか、問題について、日本に住む日本人としては、無責任な傍観的批判者としての立場から抜けることはないような気がする。「アメリカの抱える問題」とか言っても、関係ないしなあ。オースターがNYについて書いている記事なんかは、アメリカを引き受け続ける、という意識が感じられたものだけど。「街場のアメリカ論」絶対に買う!
ところでアメリカに関して言えば、このトークショーの記録も必読。
http://www.utp.or.jp/todai-club/2005/09/05/aeaauuoyeyyycoycyayeyyoyeyeyyuoie/

自分が何々である,というのはすごく嫌で,何々ではないらしい,という言い方を並べるほうが好きなんですね

と彼は語っているが、そういえば私も「自分が何々である」と言えたためしはなく、「自分は何々ではないらしい」という言い方で言ってしまう。それは結局「ああでもこうでもないしそうありたくもない」んだけど「じゃあこうである」「こうありたい」という説明ができないということだ。ここ1年くらい自分が抱えていた葛藤だ。自分が何であるか説明できる人にとっては、「じゃあなんなんだよ、他を否定してばかりでおまえがなんなのかっていうことを見せられないじゃないか」っていうことで、そういう反応に会うたびにとなんだか罪悪感を感じていたのだけど、思えば自分が魅せられてきた小説のキャラクターたちもまた、「自分は何々ではないらしい」ということでしか自分をとりあえず規定することができなかった。もともとそうなのか、小説に感化されたのか。少なくとも高校までは自分が何か「である」か、何かに「なる」のだということは信じていられた気がする。
ニートっていう人たちは名付けられるまではなにものなのかわからなくて、名前もなくて、周りを不安にしたことだと思う。ニートっていう名を得たことで少し安心して、「あいつはニートだから」とあるカテゴリーに入れてしまえる。というわけで、奇しくも今日の朝に書いたダイアリーのとこに偶然戻ったんだけど、「なんなのかわからない」存在は人を不安にしてしまうのかもしれない。だからとりあえず物語を共有しようとするのかもしれない。みんなが本当はこれは物語だってわかっているのかもしれない。でもそうでないような気もする。
さすがに今日はたくさん書きすぎたのでもうやめる。Bye now,