木曜日(メランコリーとイサム・ノグチ)

ひさびさにおこたで寝てしまった。どうしても眠くて、まあ『メランコリーの水脈』を読みながら寝たんだけど、かなり寝入って、6時くらいに一度身の危険を感じて起き、座ったりしてみたものの、すぐに寝た。つーわけで10時40分だ!
『メランコリーの水脈』は本当におもしろくて、ちょっとずつ読んでいる。ここに出てくる小説全部読みたいって思う感じ。
人がどれくらい人の評を気にして、たとえば「いいって聞いたよ」ということで本屋に向かったり読もうと思ったりするのかわからないけど、これだけブログで本の感想があったり、新聞や雑誌の書評欄があったり、教授がしれっと口にしたり、友達のおすすめがあったりで、色々と人の意見が聞ける状態にある。で、そういうときに「じゃあ読んでみるよ」「じゃあ聞いてみるよ(音楽の場合)」「じゃあ行ってみるよ(場所とか)」って思うのって、どれくらいあるのかなーと思うのだ。「この人がそっちって言うなら、そっちにいってみよう」ってね。
私の場合は、相手の経験値の深度を参考にすることもあるし、自分と相手の感じ方の似方をはかるかもしれないし、たんに相手が好きかどうかでそれを自分の経験に持ってくるかどうかをなんとなく決めたりするかもしれない。また、実際に行動にうつさなくても、心の片隅に置いておいたりする。私が何かを薦めることがあって、相手が「見てみるよ」とか言ったとしてもそこは社交辞令で、私に対する信頼みたいなのがないと多分読まないだろうなーとか聞かないだろうな、とか思ってたりする。まあ本当になにに対しても律儀な人がいて、人に対して「じゃあやってみるね」って言ったことが本当に「やってみる」ことを意味する人だってけっこういる*1けど、人付き合いが上手になるほどその約束には意味がなくなる。私は全然確かめる気がないときは「へえ」ってなふうに反応して、「読んでみるね」とかは言わない方なんだけど、…こういうやりとりって、相手に対する積み重なった、あるいはほとんど確信された、信頼とか尊敬とかが関係してくる。
で、まあ何が言いたいかっていうと、文脈的に流れてないかもしれないけど、「も☆尊敬する!」って感じになってると、ソッコー試してみるってことが、私には往々にしてあって、そういう意味で、『メランコリーの水脈』すげえーと思うのであった。だって全共闘世代くらいのおっさん(っていうかもうおじいさんか…)が中上さんのこと薦めてても、「まあいっかおばちゃんになってから読むよ」とか、むしろ彼らの共感の夥しさの中に入りたくない的なこと考えてたけど、「読みます、読ませて下さい」っていう気分になっちゃったもんね。そういう気分にさせるのが批評なのかな。まあ私の専攻を考えると読んでないなんて怠けもの以外のなにものでもないっつーかんじでもあるのだが、怠けものなんだよなあ。
あとまあ、「教養」っていうのはほとんど死語かもしれなくて、仮に死んでいないとしてももうすでに自分をおいしく味付けするスパイスみたいなものかもしれなくて、私も「もう知識はいらない 何もわからなくてもoh yeah*3」なんてMy Life*2的なことを半ば本気で思っていたりするんだけど、それっていうのはいわゆる知識人とか、声を大にして何かを言う人たちの浮ついたというよりはむしろ足場を持ちすぎた知にたいして同調することはちょっとできないからで(インテリはキリリと物事を考える傾向にあるから、わりと信頼できる気がする。)、それと元々関西系ノリがあってなにがなんでも笑いにしたほうが偉い!当然偉い!みたいのがあって常に「真剣/ふざけ」がハーフ&ハーフになってるっていうのもあるけど、まあ、少なくともクリーシェとしての知については煩わされなくてもいいはずだし、恐るべき頭のよさとキレを持つ人の歩いた道をとにかくじっと見ると、「教養」を肯定できる、と思えてくる。いや、教養の側では私の是認なんてどうでもいいんですけどね。


えー、こんなん書いてるより卒論ヤレ!

とにかく

モンスターロック

モンスターロック

のびのびのんびりいけばいい、


イサム・ノグチ展へ。
東京都現代美術館には初めて行った。アートは全然わかんないんだけど、行ってよかったなあと思った。「2mのあかり」は光の加減がかっこよくて、ちょっとUBC人類博物館のでっかいトーテムポールの仲間みたいなやつを思い出した。(うろ・おぼ・え。)「無言の歩み」は、沈黙や空っぽがテーマである今のメランコリー的心境にそぐう。上記の『メランコリー〜』では心の空洞はあくまで逃避であり、不安である、という論なのだが、たとえば「Enegy Void」などでイサム・ノグチのとらえた空洞は別にネガティブではないように思えた。というか評価のしえない場所、あらゆる評価から自由な場所が空っぽということはできないか? 佐藤伸治の言う「100ミリだけのからっぽ」的ありかたが、ここにもあるという気がした。*3からっぽについては、まだまだ自分なりにわからない状態がしばし続くんじゃないかと見ている。彫刻は丸みのあるものが多く、ときどきとんがりがあるという感じ。自然が一番の芸術?みたいなこと言ったらしいが、イサム・ノグチの見る自然は、というかかれの芸術は、なんだか成熟したやさしさを感じる。「この場所(This Place)」の周りをクルクル回ってみた。というか散々回ったあとにプレート見たら「この場所」だった。「Origin」はオバQに似ていた。サン○○ガーデン(○部分ど忘れ)にあった遊具はかなり楽しかった。手前のほうにあったのは子どもが遊んでいたので遠慮したけど、奥の方にあったのは空いていたので遊べて、ああいう空洞の中を動いたり静止したりする喜びを思い出した。
イサム・ノグチの写真がすごい男前でびびったんだけど、ハーフなのね。あの時代に日米のハーフだったら「どこにも属せなさ」はほとんど危機的に感じられたんだろうなあ。私は「居場所のなさ」「空っぽ」を感じる人に惹かれる傾向にあるみたいだ。
モエレ沼にいきたいいきたいいきたいーー!!!!!!!!
常設展も見た。10分しかなくて駆け足だったんだけど、David Hockneyのが好きだった。

*1:たとえば、こんなブログを、楽しみって言って、ほんとうに毎日読んでくれてたりとか。私は彼女たちのいる方向に向けて深く頭を垂れてます。

*2:なんでもかんでもFishmansにつなげる癖も、あんま聴かない人にとっては「えっ・・?」って感じなんだろうなあ…

*3:同上