名前について

昔、友人が当時の恋人と「子供が出来たら」と仮定して、子供の名前を考えていたので、高校生でそれは時期尚早と思ったが、彼女が本とにらめっこしていたように、名付けとは、精神的な労力を要する仕事だと思う。
ブログの名前は、適当につけた(愛犬にちなんだ)が、1年以上付き合ってみると、ニュートラルでいい名前である。題名で人を惹き付けないところなどがいい。実はLucky oneは私の名前にちなんでもいるが、多分友人も気づいていない。
ときおり私は飼ってもいない猫の名前を考えあぐねることもあるが、この場合、先ず飼ってから考えるべきだ。いや、あらかじめ名前を決めておいてから、それにイメージがだぶる猫を手に入れるという方法もとることができるか。(このように逆から考えてみることは世界を広げる、わけはない。)買ったばかりの猫の置物には、いまのところ名を付与していない。雌雄も不明。もしかすると少し裏返すと明らかになるのかもしれないが、その場合、絵的に雌ではないかと予想する。
子供を持つことがあるなら、まともな名付けをしたい。自分が小6だったとき、小1の子たちの名前がトンチキ(たとえば羅々、みたいな。)で、「親の顔が見たい」と思ったものだが、当時の小1生も、もう今年成人式、トンチキな名前でも成人しなければならない。私がいいなと思うのは、性別に関係なく、一文字の名前だ。でも「亮」などはいやだ。女の子の場合なら、平仮名というのも一つの手だ。かわいいもの。仮に名字を佐藤に設定するなら、佐藤なお、佐藤さよこ、佐藤はな、…かわE! でもどうせすごく悩むことになるんだ。
しかし、有名(名がある)とか、無名(名がない)とかいうことは、なんなのか。小説の登場人物で名前が与えられないことはよくある。夫と妻が出てくるのに、夫だけが名前を持たなかったり。(カーバーの小説だったか…、他にもたくさんあると思う。)少し話がずれるが、きみはペット(14)<完> (KC KISS)で、主人公の友達であるユリちゃんの旦那さんは、シンイチさんという名前があっても、顔がいつものっぺらぼうだった。無名であることは、顔が認識されないことと同義とするなら、その無名性は、物語の周縁にいることだといえて、更に、それは「あんまりだ(そんなのってさ、酷いじゃないか。)」なことなのだろうか。
「個性的だと思われたい」みたいな欲望が、とくに若い頃はあると思うし、大人になってもなお差異化をはかる人はいるのかもしれない。でもどこかに属して、匿名で、「どこにでもいるだれともおなじな私」でいることは、けっこう安堵できることだと思うのだ。ウェルメイドな物語の無名的登場人物になれる安心というか。しかし、私は無名だし、まさに↑な状態なので、今のところも、なにも心配することがないと思う。将来的にも、ビッグな男の嫁になるきざしはない(もし言い寄られたとしたら、そのときは彼の申し出を受け入れるにやぶさかではない)。
#名前については、「名もない」ことを逆にアピールしてくる勢力もいる(無印良品とか、「街の声」とか)が、その問題についての考察はひとまず保留にしておきたい。#また、以前、50代の人から、日本人なのだが、事情があって英語でのメールを頂いたことがあり、その人が文の締めに名字ではなく、名前のみを、たとえばAkiraというふうに、書いていたことに心がざわついた。


なんで 西瓜糖の日々 (河出文庫)の語り手は名前がないのかというところから、妄想したら、こんなことになってしまった。