最近、自分のしゃべり方が、まあ赤ちゃん返りとまではいかなくとも、子供返りしているように思う。
その具体的な例は、「〜もん。」の多用である。別に私のような者が言ったところで、めんこくもなんともないのだが、この「〜もん。」が入ることで、だだっこ的空気をまとえ、「なんかわかってないみたいだけどまあいいか」的な結論を引き出せる。
これはともかく、会話というのは、なんだかむずかしい。伝わるとか、伝えるとかーー伝わらなければ意味がない、意味なんてもともとないかもしれない。どうすればよいのかわからないけどーー自分をさらすといいんじゃないかと思えてきた。それはもちろん「そのままの君でいい」と今のままの自分を愛してもらうためじゃなくて(そんなこと考えた人は皆無だろうが)ーーだいたい伝えたいのか伝えたくないのかもわからないがーーちょっと眠いのでまた書こうっと。


続き。まあ、伝わる伝わらない、っていうのは、伝え手、伝えられ手の、双方の意識の高低や幅にも関係してくることだなと。で、そういう、のっぴきならない壁みたいなものがあったとして、そこを打破するためには、わかったふりとか、多様性の許容とかじゃなくてーー自己の凹凸を、それは露悪だろうけど、出していくしかないと思う。自分なんてどこにもないけど。