ゆれる。

「ゆれる」見てきた。言うまでもなく、オダジョーにはしびれた。
我慢するということについて、最近、たまたま考えていたんだけど、この映画ではオダジョー演じる弟が「我慢しない」(=育った田舎で家業をつぐ暮らしから逃げ、東京でフォトグラファーをしている。)、兄のが「我慢している」(=実家のガソリンスタンドを継いだ。そのことで抑圧されている。)という構造。
弟(オダジョー)は

最後まで僕が奪い、兄が奪われた

と言っていた。我慢しない弟が奪い、我慢した兄が奪われた。
私も田舎出身だから、智恵子や兄が感じたような、「いいなあ東京」も、弟の「田舎もんには結局都会の水は合わない」も理解できる。東京じゃ麦茶の水出しですら不自由なんだぜ。(いやそういう話じゃないが、そういう話でもあるわけで。)兄の「弟は好きな仕事ができていいなあ」という気持ちも分かるし、弟の「実家を継ぐのは偉い」っていう気持ちも分かるし。んー困ったなあ。
でもどちらかといえば、田舎暮らしから逃げた弟のほうが奪っているーーのか。
宇多田のThis is loveでは、

予期せぬ愛に自由奪われたいね

と歌われていて、聴くたびに「うん奪われるのっていいよね・・☆」なんてばかなこと考えてしまうんだけども、いやそういうのは、「王子様に今の生活なんて全部全部奪われたい」的乙女チック願望があるからなのか。
話がそれた。まあそらしたのだが。(しかし、文章の意図なんてどうでもいいのである。そんなこと本当にどうでもいいのだ。)映画の話に戻ると、ーー家族からは、人は奪われ続けるんじゃないかと思う。どこに行ったって家族という場が追ってくる。あの食卓が、海の思い出が、東京ディズニーランドが、川の字が、車の中が。だから浄化が必要だったんだね。