信頼できない現実

小説の世界で、不条理があっても、むしろそれはもう不条理なんだってかんじで、受け容れられる。というか、受け容れるとか受け容れないとかいう話でもないのかもしれない。だってそうなんだから。でもなんで現実で不条理なことがあると、受け容れがたいと思ってしまうんだろうと思った。ひとが物語るとき、それはまるで小説みたいに物語的だと思えることもあるのに、なんで現実でそれが起こったらそれに対して不寛容になってしまうのだろう。
たとえば、小説で、全然論理的じゃなくて、整合性がなくて、というかむしろ本当に勝手で、自分だけを愛していて、っていう人がいたとして、そうゆうキャラも愛おしいと思えるかもしれない。でも、本から目を上げて、人と話すとき、それが仕事の席などだととくに、妥当性、論理性、整合性、信頼性、建設性を求めてしまう。私たちは現実に生きているというよりは、むしろ物語に生きていると言えなくもないのだから、いっそフィクションだと見立てて現実に接していくほうが、愛を持って世界を眺められるかもしれない。
でも現実の価値を生み出していかないと、なんていうか、しょうがないよって感じはするけどね。