たまもの

たまもの

末井さんて、なんかよしもとばななに顔が似てる…
おもしろかった。私がボーとしている間に、こういうふうに恋にがんじがらめになってるひとがいるんだなあ(悪い意味でもいい意味でもない)。私も出会うときはうれしいしお別れのときはしくしくするけど、まあ半ばそういうもんだと思ってて、ここ最近では万事がそんな調子で、どーんと心が重くなってもどうせすぐおいしくソースカツ丼とか喰ってる自分がいるんだよね、とか思って途方にもくれられない。
「泣いている私」の写真がいくつかでてくる。彼女が自分の泣き姿を撮ったように、自分の泣き姿は「見て欲しい」ものでもある。自分の感情の揺れ。「泣いてるあたし」、そのあたしを確認することは、痛みから立ち直るにはいいような気がする。私が最近泣いたのは昨日、ランチ中に、重松清さんの「卒業」の一編目を読んだら泣いてしまった。それでも、食べていた日替わり定食のフライをせっせと食べて、みそ汁も飲み干し、涙をかわかせて店の外に出たのだ。まあ、私は痛みによってでなく、なんか感動しちゃって泣いたのだけど。
文章であれ、写真であれ、ある種の露悪はあると思うし、比較的いい男であるにはせよ、裸は見たくなかった、とかも思うけど、露悪も度を過ぎると、表現になるんだなという気もした。この本までいくと、自分・自分・自分・愛・愛・愛という感じなので、なんか清いようにも思える。
コミットする愛情(しかもインタラクティブ!)は、私にはないものだ。つきあった男を次々と写真におさめていくのも悪くないなと思った。別れたひと(彼女であれ彼であれ)の写真をどうするか…私はいつか捨てようと思いつつ取っておいてしまう。もうきっと交差することのない私とこの子、て思いつつ。