前と後と正義とあきらめと、生きていくこと

インドのヨガでは、死ぬことは、生きている間に占拠していた空間を「返す」ことなのだという。
以前、前からある印刷所の主が、今度たてられるマンションの住民が印刷所の音がうるさいとクレームをつけるんじゃないかと恐れて、哀しい事件を起こしたことがあった。このときに、ネットでの反応を見ていると、「あとから来るやつになんか遠慮することないのに」というものがけっこうあった。
まあ、これに限らず、聖地奪還であれ、先住民であれ、「前からいるもののほうが正しい」というものの見方は、けっこう正義とからめられることが多いと思う。
だけど、これってほんとうにそうなんだろうか、って思う。空間って「先とっぴ」でもないはずだ。もちろんあとから来て「これは自分の空間だ!」と主張することでもないんだけど。
つまり空間って誰のものでもないよね、ということで。

いや、なんでこういうことを考え始めたかというと、私はたいてい深夜に洗たくものをほすんだけど、近所の焼き鳥やのジューシーな香りがちょうどベランダに来るわけで。そうするとレノアで完全防備していても、特に干すときなんかは不安でならなくなるわけです。前からずっとある焼き鳥やだからってこんなジューシーで肉肉した香りを空間にまき散らしていいんだろうか? とふと疑問に思うこともあるんだけど、だけど私の空間でもないわけだからね、と思うし。だけどもしも、焼き鳥やさんが「そんなの、うちが先からいるんだからね。」と仮に言ったとしたら、闘いを始めなければならないだろう。

って、あんがいレノアすると平気なんですが。

死ぬと私が占拠していた空間を、返すんだ。と考えると、死ぬのもけっこう悪くないね。