「言葉はいつも思いに足りない」「孤独と不安のレッスン」

言葉はいつも思いに足りない

言葉はいつも思いに足りない

「子供が犯罪を犯した時、どうして、親を市中引回しの上、打ち首にしてはいけないのか?」
それは、親と子供は別人格だからである、という当たり前のことが否定されるのなら、理由はたったひとつです。
それは、「どうしたら、子供が犯罪者にならないように育つか、絶対に間違わない方法が分からないから」です。

ひどくまっとうな考えだと思った。
これは犯罪についてだけど、もっと小さなことでーー「親の影響を受けたんだな」「親と似てるな」と思うことは日常でいくらでもあるけど、そういう思いがよぎっても、ひとまず別人格、なにはなくとも別人格として。
「なに」と「何」は違うのです、の用例の統一、について。けどそう、

『「何を言っているんだ」と聞かれたから、「なにも言っていません」と答えた。』と表記すると、編集の人はピクピクします。たぶん、校正の人もしているはずです。

書いた人が恣意的に言葉を選んできたのと、ただただ変換しなかっただけなのかってよくわからないし、その恣意性についてまじめに付き合うと日が暮れる… というので「全部統一」という方向になるのかもしれないけども。「なにも言っていません」のやわらかさ。も、わかる。

孤独と不安のレッスン

孤独と不安のレッスン

私は孤独には慣れているほうだと思う。むしろ、自分からかもしだされる「ひとりが好き」という空気、を、年齢とともに消してきた。せめてそう努めてきた。いまは「人といたい」という気持ちになっていると思う。まるでアメリカ人のようだけど、はじめて誰かに会ったときは「私はあなたと仲良くする気があります」というメッセージを目で伝えるようにしている。マニュアル化してるわけじゃないんだけどね。だってさあ、人と会うのって緊張するんだもの。