「目かくし」読了。

うむ、面白かった*1。昨日も書いたけど、女性の書き手は「傷つきやすくて、しょうもないささいなことで悩んだり辛い思いをしたりして、物語の中で男だとかなんかの出来事だかで救われたりする」というパターンを描きがち。自分の現実の中にもそういった物語は当然あると思う。最終的には「自分はまともだ/間違えていない/このままでいいんだ」という結論を導きたいんだなあ〜という感じで、やや冷める。その結論を導く根拠も薄くて(理屈好きのようで気が引けるんだけど)、「やっぱり○○だよね、だってそうなんだもん」みたいな説明だと、ファンシーで雑だなあと思うのだ。*2せっかく夢見てる(現実を丹念に追ってない)のに、夢が自分の現実を正当化するためにある。そんなのせっかく現実や理論から離れてるのに勿体無いと思うんだよなー。
で、前置きが長くなったけど、シリハストヴェットの小説にはそういった雑さが全然ない。異常に丁寧だとすら言える。この小説は夢とか想像、妄想、とかが主人公の現実に入り込むんだけど、自己陶酔感は全然ない。詳しく微細に世界を描写しようとしているという気がする。最初の物語でアイリスがある娘さんの遺品を描写しようとするのだけど、それにおける丁寧さと一緒。*3こういうところがナイン・インタビューズでも言われていた「肌の薄さ」とも関係するんだろうか。*4
じゃあ世界を描写していないように思えるほかの文学はどうなのだろう? 見た目にも空白が多くてすかすかと思える小説は世界を描写していないのだろうか。見つめる目は雑だろうか? そういうわけでもない、ていう気がする。でもよくわかんないや。
たとえば

彼はおもむろに綿棒の入ったプラスチックの入れ物を探した。黄色いビニルのパッケージが巻いてあり、「抗菌」と書いてある。全身鏡の裏にそれをみとった彼は右手をのばし、小指だけは入れ物に触れずに(わざとではない、そうなったのだ)体の方に引き寄せた。そして目の前のちゃぶ台にそれを置き、開けようと親指でふたの開閉部分を刺激するときゅっと音がなった。予想通りの音であった。中からは無造作に綿棒23本が鍋におとされたばかりのスパゲティのように開き、まるく膨らんだ先の部分の少し下を右の親指と人さし指でやさしく拾って、………

みたいなのと、

彼は綿棒をとった。

というのと。前者が異常に描いているのか、それとも後者には足りないのか?

*1:実は図書館で借りたけど、買ってもいいかもと思うくらいよかった。

*2:まあでも、「やっぱり○○君が好き、だって好きなんだもん。」とかは罪作りではない。この文法が倫理や判断や常識に関わってくるときがちょっと。

*3:最近「丁寧」という言葉を多用しているので他の言葉をさがし中。

*4:ちなみにハストヴェットの話し方は素敵だ。