選ばれる女。

なんていうテーマでどっかの雑誌が柴田倫世ケイティ・ホームズを取り上げていて、ここでの主体はあくまで♂にあるのか、と思った。女の子の根強い「選ばれたい」願望かなぁ。
プッタネスカの恋で、まあ色々あって男が女を追いかけるシーンがあって、女が「あたしだから追いかけてきてくれたの!? それとも他の誰かでも?」なんて問いつめて、男が「佐原さんだから 追いかけてきた」なんて言う。売っちゃおうかな、この本。そういやきみペでも、「そっか、選べるんだ」的な、自由の見つけ方があったような。(何を選ぶ話だったかは忘れたけど。)
でも選ぶの主体が女であろうと男であろうと、それは主体が変わっただけの話で、本質的には同じような気がする。それはジェンダー関係の話にもっていかなくても、主体と客体を変えてみること全てについて言えそう。
ーー選ばれてるんじゃない、選んでるんだ
ーー愛されているんじゃない、愛しているんだ
ーー笑われているんじゃない、笑っているんだ
ーー喰われてるんじゃない、こっちが喰ってるんだ
ちょっと変形バージョンでは
ーー殴られた方が痛いんじゃない、殴った方の手がいたいんだ、わかるだろう
↑これ系の話聞くと、陶酔もいいかげんにしろよと思う。
支配と被支配の関係をくるっと反転させてみても、どうせいっしょだ。
たとえば情報があふれていて、それを選んでいかなければならない、みたいな論法はずうっと前から使われているんだけど、「選択権」みたいなものに私は非常に懐疑的。選択権が与えられているなんていうのも居心地が悪い。
そういえば桜の国 夕凪の街でも、最後のほうで「生まれる前 そう あの時 わたしはふたり(主人公の両親)を見ていた そして確かに このふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」なんていう場面があった。最近はスピリチュアル傾向もあって、魂みたいなものが両親を選んで生まれてくる的な話もたまに聞くし、それはそれで感動的なのだが、なんでもかんでも選択権(支配権)が与えられていれば「善」みたいなのって、まあ、単純かもしれない。それが「自由」のように聞こえてしまうのは、選択権がない人生が当たり前だったからなのか。*1

*1:やんややんや書いたけど、とうぜん、すばらしくてNICE CHOICEは好き。