木曜日(ぼくはここにいるっちゃ。)

僕はここにいる

僕はここにいる

僕はここにいる

僕はここにいる

「僕はここにいる」とたからかに歌ったのは、その存在感が名脇役的(クラスの端のほうにいるけどほのかにかっこいい等。他の例:浅越ゴエ。)である山崎まさよしである。彼は、インタビューなどでの印象では、「この僕を見てよ」というタイプでは、全然ない。「興味のあるときに、来てくれてもいいし、興味をもたれなくても構わない」的な存在の仕方だと思う。(それでも一定数の人間は彼に興味を持ってしまう。)その控えめな彼が、なぜ「僕はここにいる」と歌ったのだろう。


僕はここにいる。
これを考えるために、「僕はここにいない」を、検証したい。
僕はここにいない。と人が思うとき、それはどういう状況なのか。
二通りありうると思う。
1→僕はここにいない。というか、ここにはいない。僕に合う場所がどこかにある。2→僕はここにいない。僕はどこにもいない。というか、僕自身がいない。
1では自分自身は存在するのにたいし、2では、自分自身の存在感を感じられない。1は、「世界と自分がなじまない、ということを強く意識する自分がいる」と説明できる。2は、「世界と自分がなじまない。どこかになじめるきざしを感じられないし、自分自身がいるのかわからない。」という感じだ。


ここまできて、「僕はここにいる」をくわしく知るために「僕はここにいない」の検証がほんとうに必要なのか疑問になってきたし、なんだか検証が面倒くさくなったので、これにて終了したい。また、論文に飽きたら、検証を進める所存である。まさよしに「むくわれない 束の間の夢ならば せめて 偶然の時だけでも はかない うたかたの恋ならば せめて今 君の声だけでも」なんて歌い上げられたら、と思うと、夜も眠れない。


#どうでもいいが、私の持論で、「かっこいい男独身説」がある。山崎まさよしが、本当に結婚していないのどうかは確かめる術もないが、いちおう独身ということになっている山崎まさよしは、小沢健二千原浩史、そして夭逝した佐藤伸治とともに、私の説を裏付ける根拠となってくれている。(ここに挙げた人たちが本当に結婚していないのかどうかは知る由もないが、存命者だけで3人もいるので、少なくとも誰かは独身を貫くであろう。ちなみに反例は曽我部恵一である。)

#追記 『STEREO』

ステレオ

ステレオ

霞の向こうに新宿が見えるかもしれない部屋で、STEREOをすごく久しぶりに聴いた。『ツバメ』は上京三部作のひとつということだが、「上京」はよくある物語だが、さみしさは個別に押し寄せる。「多分ね きっと変わらない この先もどこにいても」と、変わらない自分を心のどこかで確認したり、こっそり「幸せ ずっと祈ってる この街のどこからでも」と旧友や、もう会えない人を思うことは、ある。関係ないけど、このジャケット、男に生まれるんだったらこんな顔に生まれたいなあって感じの顔である。(もてそうだし、そんななかで遊ばずに一人を幸せにすることでより株が上がりそうな予感がする。)