物語の運動性。

物語自体が、運動性を持つものでなければ、他人のこころに運動性を持たせることはできないんじゃないかと思う。終わらない物語が、他人の心に動き始める。それは微かな動きかも知れないけど。
なにか物語をきいて、「感動した」とか「泣けた」とか思えることがあって、それはこころが動かされた、ということだけども、そこで完結する。いや、別にthe endがくることはけして悪いことではないけれども、単発的な運動は波及しない。しかし、物語自体が、微動している場合、それ自体が終わらない物語であり、それを聞いた者にとっても、すぐに腑に落ちないので、心のなかにわからないまま息づくことになり、小さく動きながら在り続ける。いつまでも合点がいかない可能性も大いにあるし、いつかほんのささいな言葉を思い出してひとりで「そうか」とうなずくのかもしれない。それはわからない。
なんかよくわからなくなってきたが、そういう物語が、いいなあ。


卒論が終わったら、職探しとか職探しとか職探しとか、やることがあるんだけど、佐藤さんのお墓参りにいきたいかも。去年はろくな年じゃくて、救われなかったけど、佐藤さんとは決定的に出会ったと思えて、これからいつまで生きるのかわからないけど、救いとして、鳴り続けるような気がするるるる。
卒論出した後に図書館に寄って、たくさん本を借りようかなーと思い、せっせと予約をいれた。こないだトークショーで見た作家のを予約した。『ロリータ』もまだ読んでない。