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最近、新聞購読をしようかなあと思っている。
朝日は以前にとっていた。飽きた。ルノアールで読み比べたところによると、読売と毎日では、気配が違った。あたりまえだが。
読売はまあまあいいかなと思った。私がチェックした日に、茶道関係の人のインタビューが載っていて、茶道好きとしては、いいなと思った。ただ、いかんせん厚い。よくもこんなに書くことがあるなあと思う。「書く事なんてなんにもならないかもしれない」と自問し続けたアメリカ人作家とはおおちがいだ。
毎日は、薄さが魅力だ。好感度が高い。
ちなみに日経は、どうせ理解できないからむだだと思う。昨日中央線で若い男の子が日経新聞を読んでいたが、頭がよさそうな、小粋な子だった。きっと女の子たちは、彼のことを好きだろう。しかし日経はむずかしすぎるし高いし、私は経済に全然興味がない。別に政治や戦争にも無関心だけど。政治家が若くて男前だったら、せっせと政治の動向をチェックするのにと思う。新聞の社説も、若くて、「おじさん」を内面化させていない、頭のいい、できれば男前な子が書いてくれたら読むと思う。
東京新聞という手もある。これは3250円なので群を抜いて安い。
ホームページなどで見たところによると、私のいる地域は「朝夕刊セット」しか選べないらしい。朝刊だけの「統合版」の方が安いんだけどな。
どうしよう。最近、こんなことを考えては、「とりあえずネットでいいか」と思う日々が続いている。実際、ネットでだいたい見られる。新聞でしか読めない情報もあるのかもしれないけど、ほぼ百%不要な情報であり、知ってしまうことで記憶力のいい私は覚えてしまうかもしれない。それなら尚更ネットでいいじゃないかという気がする。紙も無駄だし。
でももともと、新聞の存在意義とは、昨日、今日、明日、そういう日常に連続性を与えるというところにある。なんだか毎日自分と無関係ないろんなところでいろんなくだらないことが起こっていて、それらが一様に物語化され、さらに自分のとこになんだか毎日配達されてくる、その連続性。今日は昨日と同じでも構わず、明日が今日の続きでも構わないーーありのままの私は変わらなくてもいいんだ☆、という安心。ならば、毎日のネットニュースチェックも私にとっての連続性か。