かんがえる。かんがえることをかんがえる。かんがえることをかんがえることをかんがえる。かんが・・

少なくとも半数にはわからないたとえであることを怖れずにたとえるが、人はウィスパー派とロリエ派にわけられる。ウ派は、アクティブで、「私は負けない、差別にも生理現象にも」といったあんばい。ロ派は、むしろ受け身で、「私は勝負しない、この現実を受け入れる」と思っている。と思う。もちろん二元論は嘘くさいのだが、この世に真実と嘘があると思う自体、再考の余地はある。というかそんなものはない。でも真実と嘘があると思うことと、そう思わないことが分断されることも、再考の余地はある。で、そういったことは延々と続くのだが、それは俯瞰する自分が俯瞰をやめることがないという性質による。本当ならやめたいのだ。
たとえば、人生をやっていると、自己を他に示せねばならないときがやってくる。別に自己紹介をせよと言われたときでなくても、我々は無意識のうちに、自分をアピールする。よく男性のとる手法として、「僕は、実は群れるのが嫌いだ」というのがあり、これはたんに「人から見える自分」と「自分だけが知っている自分」のギャップによってーーその秘密の自分を君とは共有したいという意思によってーー女の子を「影のある男の子」しかも「私だけが知ってる影」としてどっきん!とさせる効果があるのだが、この手法にも、数段階ある。
1飲み会などで騒ぐ
2女の子と二人ないし三人の少人数で話すときに、「本当は群れるのは嫌いだ」と言う
女の子がギャップにクラ!ときたところでふつうここで終了する。2で止まる男の子は、俯瞰がないと言える。しかしちょっと俯瞰するタイプなら(明るくて素直な男の子でも3まではいくだろう)、
3「”本当は”こうじゃない、などと言うのはどうなのか。」と思う。
4「”本当は”と言えたほうがいいんじゃないのか」と、「本当は」と言えないことを恥じる。
5「でも本当は”本当は”と言えたほうがいいなんてことあるだろうか」と思う
6「こんなことをいちいち考えることこそ直ちにやめるべきではなかろうか」
デモしかし・・・・なーんてふうに、段階自体は進んでいるものの、終点がないわけ!もうそれはずーっと続いちゃう。
で、現実的にとりうる態度とすれば、どこかで「結局はこうだ」と暫定的な、世界への理解を完結させる姿勢を見せるということだ。相手が俯瞰タイプならまだしも、俯瞰しないタイプだったら、相手の段階のあたりに戻るべきだ、と言うとまるで見下しているように聞こえるけど、そうではない。別に俯瞰し続けることが、本当に”進む”ことではないからだ。俯瞰しない女の子はすぐに妊娠するし、家庭を築く。そういうのって、俯瞰よりもずっと力強いし、生産的だ。
これら全ての悩みは、「も☆こうだって!」って言ってくれる神がいない日本ならではかもしれない。永遠に遠い神の視点。三人称で物語を構成することだって、難しい。OH MY…!!
でも私は大丈夫だと思う。日曜日に出るかどうかわからないのにグアムで見た男前アナウンサーの名前を知りたくて、「名前にどんな意味があるというのか」「名前には意味はない!と言うこともどうか」などとエンドレスな思惑にとりつかれることもまったくなく、この日曜日は、NHKを見続けるんだ。ずっとね。