大晦日(自覚的であれ。)

  Fカップの人が、ノーブラで紅白に出るというのを聞き、よかったなあと思った。ノーブラ推進委員会を立ち上げるほどの気はなく、重力の影響およびシャラポワ化への懸念から、わたし自身やっていないのだが、ノーブラの普及により、人は一歩前に進めるのではないかと思う。ウーマンなんたらを主張するなら、ノーブラから。とくに、あってないような胸(A弱〜B強)の人は、垂れる心配も少ないし、形がいいので、むいていると思う。Cがベストか。
  ブラ事情も、随分よくなってきた。すこし前まで、Dを越えてくると、人は、ふつうのブラ人生を諦めることを余儀なくされた。十分に少女たりうる年代でも、胸が大きいというだけで「おばん」ブラの着用を迫られ(着用しなければ無惨に形が崩れるので選択肢なし)、スポーツブラを楽しむ余裕はなく、キュートな柄の下着をのぞむのは出過ぎた行為とされていたーー「自己責任」だ、と。25センチ以上の足が女物のかわいいサンダルを試着するときのなにかやましい、「こんな足ですみません」という気分や、どう考えても勉強は不得意なのに官僚を目指す、等のそぐわなさを想像してもらえれば、マイノリティにとってのブラ事情も、理解しやすい。しかしながら、品物の有無は、二次的な問題である。本当に困るのは、心ない、あるいは永遠に無自覚の、「まなざし」である。
  D越えの人間は、「まなざし」あるいは、「まなざし」的言語にさらされることになる。「まなざし」の主体は、なにも異性だけではない。思春期に年かさの者や級友から「ませている」と言われることや、ラジオ体操のジャンプに帰因する揺れが、体に遅れて成長途上にある心を傷つけるように、大人になったって、おっさんの「ワンダフル・オッパイ!」等の言葉は、言われた方を辱め、その痛みは想像を絶する。まあ、全て想像だが。
  なにが論点なのかわからなくなってきた。とにかくノーブラはいいと思う。セックスアピールとは無関係なところで、いいと思っている。また、セックスアピールとして有効であるときは、そのときはそのとき、惜しみなく使う。また、「まなざし」に対抗する手段としては、「あなたもまなざしにさらされている」という自覚を促すことーーが有効であるように思われる。しかし、他人に自覚を促す行為は「ではあなたには人に自覚を促す資格があるのか、そのことに自覚的であれ」という自覚的な、みずからへの問いを惹き起こす。さらに「自覚的であれ」という言葉は「自覚的に自覚的であるというのはどういうことなんざんしょ」という疑問を内包せざるをえず、これまた困難を極める。
    
#また、健康食品などで知られるファンケルの出している快適下着はほんとうに快適であることを付け加えて、今年の締めとしたい。(各自ぐぐってサイトを参照されたい。)


ーーことしも、ほんとうにありがとうございました。