月曜日(永遠に別れたまま祈り続ける。)

ステレオ←『ツバメ』

LOVE ALBUM

LOVE ALBUM

↑『万華鏡』
上京三部作のひとつ、『ツバメ』のさび。

そっちには僕の声とどいてますか
すれ違う季節に思いをよせている
多分ね きっと変わらない この先もどこにいても

どっかで僕の唄 聞けますか
風に乗せるつもりで必死でつむいだけど
幸せずっと祈ってる この街のどこからでも

「僕はこの先、どこかに行くかも知れないし行かないかも知れないけど、それはあまり重要なことじゃなくて、どこにいても、僕はそうは変わらないし、君の幸せを、遠くから祈っている」みたいな感じ、とても穏やかである。
「誰かの幸せ」についての方法は、自分のコミットの強さにグラデーションがある。
たとえばサニーデイは最後のアルバムLove Albumの『万華鏡』で、「幸せの向こうへ連れてってやろう」と歌っている。熱さと色気を帯びた声だ。側にいて、近くで、引っ張っていく愛し方を感じる。「僕が君を幸せにしてやろう」。
一方、『ツバメ』は、現状を変える必要性を感じていない。「僕が君を幸せにする」という可能性はあらかじめ捨てられている。でも君が幸せであってほしいと、願っている。それは別れも内包した、穏やかな愛し方である。そこには、「二人が一緒に」という感じはなく、あくまでも僕と君は別々だ、っていうことが認識されたうえの祈り。
相手の幸せを、自分に内在化しない。それは対象へのコミットや執着を遠ざけることかも知れない。インタビューでは、山崎さんは、「俺は鬼だよ!」的なことをおっしゃっていたが、曲にその鬼性があらわれているとすれば、この執着のなさかもしれないなあ。諦念というかね。


ーー昨日の議論が、「似ているからなんなんだ」だったように、今日の議論は、「似てないからなんなんだ」という側面を併せ持つことに、気付いていることを指摘しておき、今日のところはここまで。雪が、降っているようです。