「私と別れてください」とは言えないっす。

こないだ、離婚を切り出すシミュレーションをしてみた。配偶者はいない。つまりこの想像は、無駄である。どれくらい無駄かって言うと、昨今コンビニに増えてきたコーヒーサービスで、自分のタンブラーを使おうとしたら、店の提供する紙カップを使うことを求められ、容れ物があるのに資源をつかうこととなるくらい、無駄。しかしながら、「別れよう」と言うイメージをすることで、自分には離婚を切り出すことは出来ない、とわかった。(正確には、"出来ないだろう、と想像できた"。)「あなたと歩む人生はこれ以上ありえない」という宣言は、私には不可能かな。(ちなみに、よく「別れても、友達」みたいな離婚者の経験談もあるけど、そんなことが言える人を信用もできない。)
こんな無駄な想像力をはたらかせるのも、これ、人はいつか別れると、思っているからで(これは本当のことだから「思い」ではないのだが)、別れが訪れたときに驚かないように、別れをふと、想像してみることもある。それと同時に、多分いつでも真面目に、きまじめすぎるほどに、人と接したほうがいい、と思っているが、大抵、最近なども、そんなふうにはきまじめにはいられず、自分に腹が立っている。そんな反省を公開してもしゃーない。しゃーないことはわかっているけど、書いたってええやんなあ。と関西弁で緩和してみる。せっかく離婚のことを少し話したので、家族について話したいと思う。
家族のいる人もいない人もいると思うけど、私の場合、自分の生まれてきたところであるところの家族はいるけれど、自分でつくった家族はいない。だから家族経験値としては半分だし、でもそれで十分かな。それで十分だと、ある程度、思う。
家族は、ものすごい努力をもって、維持されている。血もつながっているし、近くに住んできた過去があるし、素の部分を、多く知っているので、情もわいて、会うとほっとする。そのぶん、その穏やかさや、雑多、あるいは憎しみ、愛のようなものを維持するために、からだの内部で、ものすごく、「家族が家族であるために」小さな努力を積み重ねている。他人とよりも、つながるための努力が必要になる。「素」であることが、年をとるごとに、少なくなるように思える。そんなことを考えていると、「思考を止めよ」という声が聞こえてくる。空耳だけど。
蛇足だが、別れるイメージをしてしまうと、たいてい別れることになってしまうので、おすすめはできない。でも、別れるイメージをしても、別れるイメージがつかめないときは、その関係は続くと期待してもいいのかもしれない。まあ、相手あってのことなので、自分の妄想だけでことが進まないわけですが。