考えなきゃいけないことがあるのに、眠さにかまけて、あと逃避願望にかまけて、眠ったら、屁こき虫が、電気にぶつかってはまわって、という、不公平なほどに激しい同じ運動を続けていたので、起きてしまい、お風呂にはいった。風呂から出たら屁こき虫は電気のまわりにはおらず、窓も閉めているので部屋の中のどこかにいるかもしれず(というか必ずいて)、運動に疲れて潰えてしまったのかもしれず、私ができることは、踏まないように留意することと思いつつ、これを書いている。
暑い。ついに寝苦しい夜がやってきたかとも思うけど、まだ梅雨入りもしてないのに、ここ東京では。
疲れたわけじゃないし、あきらめたわけでもないけど、ーー対話において見えてくるのは、相手の輪郭ではなく、自分の輪郭だーーと、みうらたんが言っていたけど、ここ数日、かなり執念深く(そう言ったっていいと思う。かなり何度も、同じテーマで。)人と話し合った。相手がどう思ったかは知らないけど、「分からない奴には言っても分からない」みたいな気持ちでは全然なく(そんなことを言える資格なんて誰にもないと思う。少なくとも私にはない。)、ただただ、平行線をたどることになったこの話し合いについて、どう話し合っても、なぜか「うん」とは言えない自分、なぜか「そうじゃなくて」と言ってしまう自分が、出てきた。相手側もそう。
話し合いっていうのは、多分、もっと建設的にやるべきで、その建設的方法っていうのは、おそらく、双方の言い分が食い違っていて、それがわるいことに、損得勘定でなくてある種の倫理に関わっていたときであっても、それでも理想をすりあわせて、どうすればいいのかということを見つけようとすることなのかもしれない。でもそれはできなかった。そういう頑固さを、譲り合えなかったことも、なんだか不思議だ。どちらに正当性がある、とかいう簡単な話でもなかった。
本来的には、お互いに、なにか、自己の核心に触れるようなことを話し合うことそのものが越権行為であるかのような、関係なのに、それをおそらく十分にわかりながら、なお簡単に譲る気にはならなかったということについて、また越権行為でありながらなにかを伝えようとしてくれたことについて、まだ考えてみる必要があると思う。
屁こき虫はどこにいったか。