天然という愛と暴力。

こないだ、バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?を読んでいて、オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)の三砂ちずるについて、

そもそもバックラッシュとは、ほぼ一貫して「素朴さ」の問題なのであり、そこで彼女のような"天然キャラの学者"という得がたい素材は、あらかじめスター性を約束されているのだから。

と、斎藤環が書いてあった。天然性ゆえに自己を許し、認めることを他者に強要し、あるいは、悪い場合には、唯一の正当性を主張してくることっていうのは、いっぱいあると思う。俺は天然だ、とは言わないにしても、天然としか思えないような非整合性、非論理性、ひどく感情的でありながら"論理”や"客観"という言葉をいっしゅの天然的脅威として使い、その天然性は、天然ゆえに戦略的ではないにせよ、ひどく抑圧的に作用する。
しかしまた、天然だということは、別にそれ自体では問題はないのだ。いや、別に、彼(彼女)の天然発言によって、彼(彼女)以外のところに「違和感」が生まれ、その違和感、腑に落ちなさなどが、世界の見方を救うことはないにせよ、立ち止まって考えるきっかけになるーーなんてなことを言っているわけではない。やっぱり私には、天然的”おれは正しいんだ”発言に、まともに向き合うことは無駄でしかないと思う。ただし、愛すべき天然もいる。
たとえば、いまや大阪を飛び出して全国ネットになった陣内智則だが、彼は本当に天然である。以下のリンクにある「逸話」を参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/陣内智則
彼のテレビでのトーク、司会ぶりを見ていればわかるが、関西の厳しいお笑い界で、多少天然的存在感だったにせよ、しっかり生き抜いてきただけあって、お笑い的反応も素早い。だから天然ボケといったことで想起されるような、「ものも知らないけど愛すべきおにゃのこ」みたいな雰囲気はない。(だいいち彼はおとこのこだ。)ただ、なにかが、決定的に普通と違うだけで。
彼は愛すべき天然ボケだ。天然性が、自己を正当化するために天然的に使われるとき、天然は暴力になる。