吉祥天女

吉祥天女 (2) (小学館文庫)

吉祥天女 (2) (小学館文庫)

亮「なにやってんだ? 」
水絵「おはじき! おにいちゃんもやる? 」
涼「いいよ オレは 」
小夜子「そうよ 水絵ちゃん これは女の子だけの楽しい遊びなの… 男の子は仲間はずれなのよ」

体の弱い水絵、その兄である涼。そして物語の主人公である小夜子の会話。

このへん、吉祥天女という物語のこころかも・・と思ってしまう。美しく生まれたがゆえに男たちの、実際の、あるいは妄想上での犯しを受けてきた小夜子は、女に生まれた業にくるしみ、男たちに復讐する。証拠をのこさずに、男たちが、自分から破滅に陥るように導く小夜子の復讐のさまは見事で、怖くて、でも恐ろしいのではなくて「すごいな」っていう感じで。
物語中の、男嫌いの由似子も言う。

あんなにきれいで女らしくって…ふだんはすっごくやさしいのに いざって時になると相手が男でも絶対尻ごみしたりしないもの あの人みたいに毅然とした態度とれたらどんなにいいだろって思っちゃう

同感。こういう感じって、女ならではの感想かもしれない。
元級友(♂)が、「あの話、すごいけど、俺男なのに読んでいいのかなって感じがする」と言っていて、他におっさんが「俺あの話はわかんなかった」と言っていたので、あー、この話自体が、「女の子の」ものなのかなあ、と思った。で、上記の「女の子だけの楽しい遊びなの…」っていうところにも、物語全体への共感があると思う。
まあ、必ずしもこの話が女性にうけるわけではなく、私も何人か女友達に読ませてみたけど、けっこう無反応で(この時点で、マジか? と思うんだけど)、上記の元級友のほうがよっぽど「こたえる」感じで読んでるな、という印象だった。だから一概には言えないんだけど。
吉田秋生は、女とか男とか、そういうものから生まれてくる暴力に、異様に敏感な作家だと思う。それもたとえば家事とか育児とかそういう面から男女の不均衡をとらえているのではなく、男女の一方の事情からものをとらえ、とりあえず他方を軽んじてみるのでもなく、もうちょい凄惨に暴力的で、かつ「本当」だと思えることをかいている。
たとえば、イヴの眠り―YASHA NEXT GENERATION (1) (flowersフラワーコミックス)のこの場面。

ルー・メイ「ねえ 中尉 男が一番無防備なのはどんな時だと思う?」
クロサキ中尉「さあ…トイレかな」
ルー・メイ「いく時よ この時ばかりはどんな用心深い男もスキができるわ」

こ、これは怖いと思いませんか。この漫画にもいわゆるバカな男たちは出てくるけど、クロサキ中尉は利口だし、用心深い。吉祥天女でも、涼くんや、由似子の兄、また小夜子の付き人、などは利口で、頭がキレる。
吉田秋生の物語にはバカな女たちも時々出てくる。たとえば風俗に行ったことを楽しげに話す男たちに、「ええ〜? もお〜〜っ☆★」*1ってかんじで反応する、楽しげな女たちとか。つまり、男が女を買う話をなに楽しげに聞いてるんだか、っていうこと。でもさすがに物語の重要人物である女たちは、バカじゃないなあ…。


歳をとるにつれて、若かった頃は「そんなのは絶対いやだ」と思えたことが、「そういうものなんだな」という諦めにかわっていくことはけっこうある。暴力的だけど、目をつぶろう…とやっているうちに本当に気付かなくなってしまうことだってけっこうある。同時に、自分の暴力を許していると思う。そんなことに敏感であっても価値はないのかもしれない。吉田秋生さんの漫画を読むと、そういう自分の鈍さの皮がばっとはがされてしまうような気持ちになる。


女の子だけの遊びを、できなくなったら、なにかが終わるという気がする。

*1:関係ないけど、女性がよく使う「です☆」みたいな文の星印に、フリルのついた暴力を感じるときがある。「フリルのついた暴力」については岡崎京子の作品のどれかを参照すると出てくる。でも羽海野チカの「も☆最高!」みたいなのはネタだから違和感はない。というか違和感こそが狙いかな。