物語としてのケア

素人は確かに「専門知識」はもっていない。しかし、それまでの人生経験に裏打ちされた自分なりの「経験知」をもっていて、それでもって、物事を解釈したり判断したりする。したがって、それは、あらかじめ用意された枠組みという点で「専門知」と同じである。素人も「無知」になることは難しい。「無知」はきわめて高度な専門性であることがわかる。

物語の力を考えなおすために読んでるんだけど、いろいろとおもしろいことが書いてある。無知になるって難しい。これはひとつの偏見だと思うけど、たとえば、心理学専攻の人と話しているとき、昔、ちょっと窮屈な思いになることがあった。「ああ、それはね、こういう心の動きで」みたいなことをすぐ言いたがるため(ごめんなさい)、「そこに“その人”は見えているのかな」と。一般化できる法則を手に入れてしまったために、個別の気持ちに対応できなくなるような、そんな感じ。
物語といっても、私たちはみな同じような物語を持っているのかもしれない。なんて、普遍性を見つけたがるところがいけないのかもしれないんだけども…。「教えて」と思う前に「わかった」と思ってしまうなんて、それは悪い癖なんだと思う。私はいじいじして、「教えることなんてなんにもないよ、つまんない人間だから」みたいに本気で思ってるんだけど、教えたり教えられたり、うんとそういう時間を過ごしても、まだ「無知」で、っていう、そういう、自由があればいいいなあ。