名のない白黄緑。

アボガドは本当に美味しいと思う。メキシコ等で栽培されたあの不思議な白黄緑のフルーツが、日本のお米の上にのっかかって丼として成立し、むしろマグロ丼よりも美味しいのではと思わせる。そういうのを見ると、食のグローバリズムを思う。ところでアボガドはその栄養価から「森のバター」という異名をとるが、それはアボガドがその実にまとっている物語と言っていい。物語化とは、意味づけである。私達にそくして言うと、私達もまた、「私にはこんな意味がある」という物語を、物語を語るときにも、忍び込ませなければならない。(つまり、これを語る意味はここにあるということを語らなければならない。)つまり、物語ることは意味を付与する作業なのだが、では言葉が意味から逃れることはできないのか、と言うと、そういうわけでもないと思う。これまでに、意味から逃れるために、これまで色々な人が、闘ってきた。それはたとえば「‥もある‥しかない‥」という考え方ではなく、「‥がある」と言うことなどか。
まあとにかく、どんな意味づけであれ、それは事実そのもの、現実そのものと比較すれば「過剰」である。意味がなければ語ることに意味がないという風潮は、ほとんどファッショ的不寛容である。(こう言うことで、「意味がない語りを実現させる」意味について示唆してしまうところが、言葉と意味の、切っても切れない関係である。)また、意味づけをされたことで、その現実が揺れなくなる可能性もある。いやむしろ意味があることが重要で、意味がなければスイングはなくスイングがなければ意味がないなんてことになる。とにかく、アボガドは、アボガドではないかもしれないのに、アボガド以外の何かですらないかもしれないのに、もうアボガドになってしまったのだ。
#真面目に、読まないで下さい。