I've never, ever, seen anything. But I imagine.

昨日は、学校に行くと、友人に会えたのですごくよかった。
ところで、学校に行って、家に帰るのに、私は徒歩と電車を使った。私は電車もない田舎に育ったので、満員電車はいまでもすごく苦手なのだが(平気な顔して乗っている都会育ちの人だって苦手だろうと思うけれど)、よく乗る中央線は、夜になるとサラリーマンだらけだ。おじさんがアグレッシブに詰め込んできている。比率的に、85%はおじさんではないだろうか。私は静かに耐える。ーー心の揺れを鎮めるために静かな顔をするんだーーと、知らない他人と密着しようと、気にとめない。少なくとも気にとめていないふりをする。
でもときどき釘付けになる乗客がいるものである。
こないだ満員電車で、サラリーマンのおじさんが、片手に吊革を持ち、片手をおもむろに鼻の穴に入れ、ほじり、鼻くそを他の乗客のいる空間に飛ばしているのを見た。人は、自分の鼻くそ以外に肯定的な気持ちを抱けない。私は遠目に見ていたので、私が彼の被害を被ることはなかったけれども、私に見えない私の背後の人間が、私に飛ばさないとは限らないのだ。
「人の言うことに流されない」ことへの抵抗として、「自分の目で見たものを信じる」ということはよく言われる。百聞は一見にしかずだとか、Seeing is believing(これは「見るまでは信じるな」という意味にもなるとのこと)だとか。しかし、自分に見える範囲とは、かなり限られている。たとえば、コインの表と裏の両方を、十分に見ることは不可能だ。表を優先的に見ることを選ぶと、裏は見えづらい。表しか見えてないのに、「信じる」と言っても、ちょっと狭いと思う。だけど、裏は見えない。
表を見て満足するのでなく、裏を想像する力が必要なのだろう。これは、他の人について本音と建て前だと言って、表にあらわれていない、しばしば悪い側面を、「真実」として、何かを見抜いた気になっているのとは全く違う話で、それはたんに意地悪なんだと思う。
たとえば。
彼の足先を見ることで、彼のつむじを想像すること。
彼女が淹れたコーヒーを飲むことで、彼女の淹れる紅茶を想像すること。
彼の字を見ることで、彼の声を想像すること。


あなたの前面を見ることで、あなたの背面を想像すること。鼻くそが飛んでくるかもしれないんだから。